2008年01月23日

●豊田商事永野会長刺殺事件 (動画)



1952年(昭和27年)8月1日、永野一男は岐阜県恵那市東野に生まれた。東野は盆地のはずれに位置し、「寒村」と呼んだ方がふさわしいような寂しいところであった。15歳のとき、島根県の叔父の家に預けられ、中学を出た。集団就職で愛知県の「日本電装」刈谷工場に勤めたが、2年で退職。その後、1年ほど経ってから、消火器のセールスをした。名古屋の不動産会社「名藤富士開発」の営業所に、消火器のセールスに現れ、そこで「消防署の方から来たとか言って売っているのはお前らか。そんなにしてまで金が欲しいのか」と言われ、永野は「欲しいんです」とひとこと言ったきり下を向いて黙ってしまった。面白い奴だと思われたのか、永野はそのまま「名藤富士開発」に入社したが、ここでは給料分だけの仕事をした。この頃から競輪、競馬に凝り始めた。その後、商品取引会社の「岡地」に転職し、ここでは外務員として働いたが、地域ごとに5人ずつに編成されたグループのグループ長に1年ほどで昇進した。21歳にして、年収6、700万円を稼いだ。だが、顧客から預かった3000万円を勝手に小豆相場につぎ込んで、1800万円の穴をあけ、会社をクビになった。それから5年ほどは、ダイヤモンド販売のセールスをしたり、職をめまぐるしく変えた。

1976年(昭和51年)3月30日、大垣競輪場のトイレで164万円入りの財布を掏って、警察に逮捕された。このとき、永野は「競輪というのはゲームじゃないかゲームの場所で金をスラれる奴なんてのはそっちが悪いのだ」と取り調べの刑事に言い張ったという。

永野は考えた。高齢の年寄りはお金を持っている。しかも、そのお金を増やしたがっている。また、金持ちの年寄りは一人で住んでいたり、家族と住んでいても、家族を信用せず自分一人でお金を隠したがっている。この年寄りのお金を集めて自分のものにしてしまおうと。

1981年(昭和56年)4月22日、永野は大阪豊田商事株式会社を設立(当時、社長は道添憲男、永野は副社長)、純金ファミリー証券を販売するペーパー商法を始めた。「豊田商事」という名前にしたのは、お客さんに自動車会社がバックについていると錯覚させるためであった。

1982年(昭和57年)4月21日、商号変更して豊田商事株式会社となる。

セールスマンを雇って、お客さんに利殖のために純金の購入を勧める。そして、お客さんが金地金を購入してお金を殖やしてみようという気持ちになったら販売契約を結ぶが、その契約の中には金地金は同商事が預かり、その預かった金地金を運用して年10〜15%の運用益を出し、それをお客さんに配当するというものだった。

豊田商事は金地金を購入したと思っているお客さんに代金と引き換えに「ファミリー契約証券」という紙切れを渡すだけだった。

「日給2万円プラス売上げの5%以上保証」といった高額条件を提示した新聞広告につられて集まってきたセールスマンたちは「葬式代までふんだくれ」という滅茶苦茶な営業方針を押しつけられ、理解力の乏しい老人に狙いをつけて、あの手この手で長い間ねばって勧誘し、諦めさせて契約を取るというやり方をしていた。一人暮らしの老人のところへセールスウーマンが来て、掃除、洗濯、炊事をやり、一晩一緒に寝たということがあった。

契約が満期になると、強引に更新を勧め、また中途解約には応じず、応じる場合は元金以上の違約金を取るのであった。運用の配当金も支払うことなく、積み立てという名目で更新していくので会社からお客さんに支払うお金はまったく必要なかった。また、派手に宣伝もしていた。

このため、トラブルが絶えることがなく、設立してから1年も経たないうちに通産省に苦情が山積みした。この悪徳商法が違反にならないように商取引の権威である弁護士を月500万円もの法外な給料で雇っていた。

永野会長は金契約以外にも、ゴルフ会員権販売、マルチ商法まがいの「ベルギーダイヤモンド」など100にも上る企業を雨後の筍のごとく設立していき、約5万人から、約4年間で2000億円集めることに成功した。

「商売に道徳は不必要」などとうそぶきながら、一方では「顔を知られたら殺される」とマスコミを極端に嫌い、住所も隠していた。結婚も「累が女房に及ぶ」として一人暮らしをしていたが、ランボルギーニ、ジャガー、ベンツといった超高級車や豪華クルーザー、自家用ジェット機を買うなど派手好みだった。

また、「香港の銀行を買収しようか」とか「いっそアフリカのどこかの国1つを買おうか」などと、誇大妄想的な夢を口に出すようにもなった。

だが、この「ファミリー契約証券」取引は、期限が来れば金地金の購入代金を顧客に返還しなければならず、顧客を無限に拡大しない限り、必然的に破綻する。

豊田商事は税を滞納し、高利の借入も行うようになった。

1985年(昭和60年)4月、関係会社の外交員が逮捕され、大量の書類が押収された。

6月15日、外為法違反で豊田商事の強制捜査があり、17日、永野は事情聴取された。

6月18日午後4時半ごろ、永野会長は大阪市北区にあるマンション「ストークマンション扇町」の5階の自室に1人でこもっていた。ドア周辺には、約30人の報道陣やガードマンが張り込んでいる。

その人垣を押しのけて、2人の男が永野の部屋のドアの前に立った。ゴマ塩頭でベージュのブレザー姿の工場経営者の飯田篤郎(当時56歳)とパンチパーマに黒ずくめ姿の建築作業員の矢野正計(当時30歳)であった。

ガードマンが誰何(すいか)すると、飯田が凄んだ。

「名前なんかどうでもええ。鉄工所を経営しとるもんや。永野に会いたいんや。開けんかい。お前ら、よう、こんなやつのガードしとるな」

驚いたガードマンは、電話で聞いてみる、と言って階段を降りていった。

報道陣の問いかけに飯田は声を荒げて怒鳴った。

「被害者6人から、もう金はいらんから、永野をぶっ殺せと頼まれてきたんや。ドアを開けんかい」

飯田は報道陣からパイプ椅子を取り上げ、それでドアを激しく叩き始めた。応答はなかった。

矢野が玄関脇の窓のアルミ桟を数回、力まかせに蹴った。2人は折れた桟をはぎ取ると、窓ガラスを蹴破り、呆然としている報道陣を尻目に、部屋に飛び込んだ。報道陣のカメラがいっせいにその窓の中へと集中した。

矢野が持っていた鞄には銃剣が入っていた。数分後、室内で格闘する声が聞こえてきたのち、飯田が窓から出てきた。

血まみれの銃剣を持ち、服にも返り血があった。

飯田は胸を張って、周りを見渡した。

「殺(や)ってきた。俺が犯人や。警察を呼べ」

そう言うと、再び、部屋に戻った。2、3分して2人が出てきた。飯田は勝ち誇ったように言った。

「これで死んどらんかったら、またやったる。87歳のボケ老人を騙しくさって、850万円も取ったやつやからな。当然の報いじゃ」

飯田とは対称的に報道陣はいたって冷静だったのが印象的だった。

写真週刊誌『FOCUS』(新潮社/現・休刊)に、自ら血しぶきを満面に浴び、砕けんばかりに歯をむき出しにした永野の断末魔の形相の写真が掲載され、人々を戦慄させた。

2人は駆けつけた天満署員に殺人の現行犯で逮捕された。飯田は「法律は手ぬるい。わしがやらんかったら、他にやるもんはおらん」と言い放った。

永野は、全身13ヶ所斬られ、中でも左脇腹から深さ18センチも銃剣を刺しこまれていたのが致命傷だった。そのポケットの黒皮の財布には711円入っているだけだった。その後、病院に運ばれたが、出血多量で死亡した。32歳だった。

飯田は高齢者、身障者を従業員にもつ町工場を経営していた。自称右翼で、高齢者を食い物にする永野会長は生かしておけなかったに違いない。矢野は世話になっている飯田に義理を立てただけだったようだ。

6月19日、警視庁は投資顧問会社「投資ジャーナル」の元会長の中江滋樹ら幹部11人を詐欺罪で逮捕した。仕手の介入で確実に儲かる株を安く分けてあげるなどと言葉巧みに投資家を募り、約8000人から約600億円近く集めたが、株には投資せず、私的に流用していた。中江はタレントの倉田まり子に7000万円の豪邸をプレゼントして愛人関係にあったなどとワイドショーなどで騒がれたが、真相は不明。

6月20日、被害者らにより豊田商事の破産が申し立てられ、7月1日、破産宣告がなされた。破産管財人に弁護士の中坊公平(なかぼうこうへい)、他2人の弁護士が選任された。

中坊公平・・・1928年(昭和3年)、京都市生まれ。京都大学法学部卒業後、司法修習生を経て、1957年(昭和32年)、大阪弁護士会に登録。1970年(昭和45年)、大阪弁護士会副会長に就任。1984年(昭和59年)、大阪弁護士会会長、日本弁護士連合会副会長。1990年(平成2年)から2年間、日本弁護士連合会会長。1996年(平成8年)、住宅金融債権管理機構社長。1999年(平成11年)に設置された政府の司法制度改革審議会では委員として参加し、法科大学院の立ち上げや裁判員制度導入など一連の改革案づくりに関与した。また、その間、森永ミルク中毒被害者弁護団団長、千日デパート火災テナント弁護団団長、豊田商事株式会社破産管財人、産業廃棄物不法投棄・豊島(てしま)事件弁護団団長などとして活躍した。2003年(平成15年)、弁護士を廃業。『金ではなく鉄として』 / 『中坊公平・私の事件簿』 / 『罪なくして罰せず』などの著書がある。

森永ヒ素ミルク事件・・・1955年(昭和30年)、岡山や広島を中心とした西日本一帯で発生した中毒事件。粉ミルクにヒ素の混じった不純なリン酸塩を使用したことが原因で乳児131人が死亡、被害者は1万人を超える大きな被害となった。

中坊弁護士はまず、豊田商事が雇っていた顧問弁護士からお金を返還させた。さらに、1人で国税庁に乗り込んで、豊田商事のセールスマンたちの給料から生じる所得税の源泉徴収分の返還を請求した。国税庁は「われわれは賭博の金であっても売春婦の所得であっても所得税というものは取る」と言って、これに応じなかった。だが、中坊は諦めず何度も国税庁に足を運んだ。そして、ついに、国税庁が折れた。破産管財人側が従業員を相手取って裁判を起こし、その従業員の報酬契約が公序良俗に反して無効であるということが確定すれば、その分に相当する所得税は返すと国税庁は認めたのだ。つまり、公序良俗に反する行為があった場合、そこに雇用契約があったとすればそれを無効にすることができ、それによって生じた給料は給与所得ではなく雑所得となる。雑所得には源泉徴収義務がなく、この源泉徴収分の13億円を取り戻すことができたのである。このようにして返還を請求し、他のも全部合わせて120億円余りを取り戻すことに成功した。この管財業務は6年の歳月を費やした。

翌1986年(昭和61年)、豊田商事の残党がつくった海外金融先物取引会社「飛鳥(あすか)」の破産が決定。債権総額は約15億円であった。同じく、残党グループの「フェニックス・ジャパン」は4300万円を騙し取っていた。

3月12日、大阪地裁は飯田に対し懲役10年(求刑・懲役15年)、矢野に対し懲役8年(求刑・懲役13年)の実刑判決を下した。

飯田は出所後、現場に居合わせた報道陣の野次による教唆があったとして4回、再審請求を起こしたが、いずれも却下されている。

1988年(昭和63年)、約1500人の被害者が「国が詐欺商法を放置したため被害が広がった」として、国に約24億8000万円の損害賠償を求めて大阪地裁に提訴した。

1989年(平成元年)3月、大阪高裁で矢野に対し控訴を棄却し、懲役8年の刑が確定。

3月29日、大阪地裁は豊田商事の社長の石川洋ら当時の幹部役員5人に対し、虚業そのもので詐欺にあたるとして5人の被告にそれぞれ、懲役10〜15年の実刑を言い渡した。詐欺事件としては過去最高の厳罰となった。この事件においては、同社の元社員を相手取った約170件の民事訴訟や、消費者保護行政の怠慢を追及する国家賠償請求訴訟などが起こされ、元社員らの民事責任を認定する判決も相次いでいた。

1990年(平成2年)6月、最高裁で飯田の上告を棄却し、懲役10年の刑が確定した。

1992年(平成4年)4月22日、東京地裁は「公正取引委員会が法的措置を怠ったために豊田商事の詐欺的商法被害が防げなかった」として都内の被害者ら52人が国や豊田商事の元社員らに計約5億円の損害賠償を求めた訴訟で、国に対する請求は棄却したが、元社員らに総額約3億800万円の支払いを命じた。

1993年(平成5年)、大阪地裁は被害者が国家賠償を求めていた裁判で、豊田商法を「違法な詐欺商法」と認定したが、「各省庁に違法な職務行為があったとは認められない」として請求を棄却した。原告側が最も違法性が強いと主張した警察庁の責任については「当時、強制捜査に必要な資料を入手していなかった」と判断した。

1998年(平成10年)、大阪高裁は被害者が国家賠償を求めていた裁判で、「各省庁は迅速に豊田商法の実態を解明して規制できなかったが、それが著しく不合理とはいえない」として、原告側の控訴を棄却した。

2002年(平成14年)9月26日、最高裁は被害者が国家賠償を求めていた裁判で、被害者側の上告を棄却した。消費者保護行政のあり方が問われたこの裁判は、提訴から14年で被害者側の敗訴が確定した。

『コミック雑誌なんかいらない』(監督・滝田洋二郎/主演・内田裕也/ポニーキャニオン/1987)という映画では、豊田事件をモデルにしたシーンがあり、悪徳商法の社長宅に、事件と同じように、義憤にかられたビートたけし扮する自称右翼の男が拳銃片手に乱入。カメラの前で殺人が堂々と行われる様を再現している。

1986年(昭和61年)12月9日、ビートたけしがたけし軍団の11人とともに当時、たけしの愛人とされた専門学校生のA子(当時21歳)が講談社の写真週刊誌『FRIDAY』の執拗な取材攻勢にあったとして、「家族や個人のプライバシーを侵害するのは許せない。オイラが守る」と、講談社の『FRIDAY』編集部を襲撃する事件を起こした。前年の豊田商事事件に影響されたとは思いたくはないが・・・。1987年(昭和62年)6月10日、東京地裁はビートたけしに対し傷害罪で懲役6ヶ月・執行猶予2年の判決を言い渡した。

参考文献・・
『現代殺人事件史』(河出書房新社/福田洋/1999)
『中坊公平・私の事件簿』(集英社新書/中坊公平/2000)
『極悪人』(ワニマガジン社/1996)
『犯罪地獄変』(水声社/犯罪地獄変編集部/1999)
『嫉妬の時代』(飛鳥新社/岸田秀/1987)
『裁判官 Who'sWho 東京地裁・高裁編』(現代人文社/2002)
『新潮45』(2005年8月号)
『毎日新聞』(2002年9月26日付)